2002.7.14.
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総合的学習の未来
四角形吹き出し: ジョン・デューイ John Dewey
(1859-1952)アメリカ・プラグマティズムの哲学者・教育学者、道具主義・進歩主義教育を提唱。

なぜ、総合的な学習の手法ではいけないのか?


知られていないジョン・デューイの負の遺産

前頁のコラムに記したように、輝かしい教育の理想と、自己矛盾の少ない理論で構成された、ジョン・デューイに始まる、進歩主義教育または、自由主義教育の流れは、「道具主義」、または、「総合的学習の手法」として、子供中心主義という美名と、一見、詰め込みの知識偏重主義を是正する解決法のように聞こえる、その理想の高さから、1960年代から、1980年代にわたって、アメリカの教育界において、支配的な教育理念として受け入れられてきました。アメリカの研究家も、彼の影響を受けない州はないと断じています。

デューイの「学校で提供される、知識は、それだけでは、無味乾燥なものであり、実生活の中で、応用・実践されて、初めて意味あるものとなる。」という考え方は、一見、容易に否定しがたく、いったん、これが、流布されると、後戻りが極めて難しいという特徴を持っています。

それがため、発祥の地アメリカでも、この呪縛から逃れるに、20年余を有したのです。

発達心理学等の心理学・臨床教育学等の裏づけを持つという印象から、学問的にも極めて完成度の高い印象があり、頭だけで、考えるタイプの学者には、絶賛されうる可能性をも秘めているところがまた、問題なのです。

しかし、現在ではアメリカの最悪の輸出品とさえ、卑下されるこの学習理論の成果は、日を見るより明らかです。

必ず生ずる学力の著しい低下

文部科学省や、一部の教育評論家は、この総合的学習とゆとり教育を実施しても、決して学力は低下することはないと、しばしば、断じています。

しかし、これには、気をつけなければならない、レトリックが潜んでいます。

それは、我々が通常考えている「学力」と、文科省が考えている「学力」とは、すでに、定義が根本的に異なっているからなのです。

ジョン・デューイの理論によれば、学力とは、子どもの「興味・関心・意欲」に他ならず、知識や、能力は、それほど、大きな比重を占めていません。つまり、極端な言い方をすれば、子どもが、やったことがなくても、計算に興味や、やってみたいという意欲を示しさえすれば、それで、その子どもは、算数や、数学の「学力」があると判断され得るということです。ですから、総合的な学習の手法と、絶対評価とは切っても切れない関係にあることがお分かりいただけると思います。つまり、我々が通常、漠然と考えている「学力」とは、いわゆる「読み書き・そろばん」のことであり、そもそも定義づけが違うのですから、学力論議は、そもそも、かみ合うはずがないのです。

学力低下の不安を受けて、(これは当然のことですが、)2年後に、全国一斉に学力検査を行うと文科省は発表していますが、これも、「新しい学力観」に基づくとするならば、問題をすべて、公表しない限り、うかつには信用できない道理となります。もし、文科省が、「興味・関心・意欲」を「学力」と定義する「新しい学力」を図るテストを実施するとすれば、意欲や、関心があれば、実際の計算力や、読解力がなくても、高い点数が結果として現れてくるはずだからです。(それも配点いかんによっても結果は違ってきます。)

しかも、「学力」を「読み書き・計算」と定義した場合の学力は、確実に低下することが、過去にこの学習法を実践した例から、明らかに読み取ることができます。

アメリカでの壮大なる実験

総合的学習の発祥地アメリカでは、既にほぼ全米で実施され、その結果は、明らかです。

かつての、アメリカに対する私たち日本人の印象も、まず、そのことを物語っています。

「アメリカ人は、おつりの計算が出来ない」などと、(実際にどうかは別として)よく、言われていました。また、犯罪の多さも、かつてのアメリカの負の印象として、今も残っています。かつて、そうではない、社会を享受していた我々日本人には、想像すら出来ない世界でした。しかし、昨今、どこか、彼岸できいたような出来事が日本でも散見されるようになって来ました。ここに、不思議なアメリカ社会との符合が存在するのです。

それは、教育の成果という視点から見ると明らかになります

カリフォルニア州の実例

1980年代に既に、「基本に帰れ」-Go back to Basics- の呼び声の基、読み書き計算という基礎学力重視の方向に転換しつつあったアメリカにおいて、同じ基礎基本の徹底を実施するという名目のもとに、総合学習が、名前を変えた、「トータル・マス」「トータル・リーディング(ランゲージ)」という形で、カリフォルニア州において、実施されました。アメリカは、本来、州ごと学校ごとに制度が異なり、日本のような一斉実施の例はそれほど多くはないのですが、カリフォルニア州においては、カリキュラムの内容に州の教育委員会が積極的に介入できる素地がありました。

そのため、いわば、総合的学習派の巻き返しの形で、実施されたきらいがあります。しかし、ここで観られる結果は、今後の日本で、一斉に全国一律で行われる「総合的学習の時間」の未来を占う点で、注目に値します。この内容については、東京大学教授、刈谷剛彦氏の「学歴社会という神話」に譲るとして、やはり、鳴り物入りで、暗記や、計算ドリルや、スペリングからの子どもたちの解放を高らかに謳った、トータル方式の(和訳すれば、やはり、「総合的」となるか!?)教授法は、その後、州全体の学力(読み書き・計算力)の著しい低下、94年に実施された、全米教育評価委員会での統一テストで、カリフォルニア州は、読み書きにおいても、算数(数学)においても、全米で底辺に位置するような惨憺たる結果であった。経済的に恵まれないマイノリティの多い南部のいくつかの州に次いで、最下層の部類にあることが判明したのである。その後、同様の別のテストでも確認された。」によって、事実上の失敗に終わっています。

戦後日本の実践例

また、この手法は、戦後の日本においても、一度、実施され、即座に学力の低下を理由に廃止されている事実も、見逃すべきではありません。

敗戦直後、それまでの、日本の伝統的な教育が、軍国主義につながるとの誤解に基づき、戦前の教育内容がすべて未検証のまま、投げ捨てられ、その代わりに、アメリカの自由主義教育が輸入されました。これも、ジョン・デューイの理論に基づき、先進の教育理論の実験として行われた観があり、やはり、知識より、実践、実験が強調され、伝統的な日本の読み書きそろばん的な、知識・技能の習熟を目指す教育とは、かけ離れたものでした。様々な実験や、野外活動等に支えられて、生徒たちには、好評でしたが、時の教職員組合が、全国的な実態調査を行い、「このままの状態では、蒔かれた種は、極貧弱な実りか、もしくは、ほとんど、実りをもたらさない可能性がある。」と結論付け、この調査結果以降、急速に、自由主義教育は、鳴りを潜め、高度成長とあいまって、カリキュラム教育へと、移っていきます。いわば、当時は、伝統的な日本の教育の良さを実践的・体験的に知る多くの教師たちによって、その本格的実施を阻まれた形になるのです。

―以上「刈谷氏の著作より部分引用」

90年代・広島県の凋落

さらに、極近年、この総合的な学習と、ゆとり教育の実践が、この日本で、既に実験的に実施されている事実も余り知られていないようです。

別紙・センター試験・県別平均点のデータは、代々木ゼミナールのデータを基に、「日本教育再考」の大坪氏によって、作成された折れ線グラフです。

「日本教育再考」
<広島県センター試験順位推移グラフ>総合的学習の導入先行実験の結果

これを観れば分かるように、現在、総合学習とゆとり教育の旗振りの急先鋒たる、現文科省審議官の寺脇氏が1993年〜1996年の3年間広島県教育長に就任し、その間、今年から、本格実施される新指導要領の内容を先取りする形で、総合的学習とゆとり教育を徹底的に実施に移しました。その直後から、広島県のセンター試験の平均点が、急降下し、何度か、もがく様に上昇するものの、就任前の全国18位から、2001年には、全国39位にまで、下落しています。つまり、学力「読み書き・計算力」また、それを基礎とする、すべての基礎学力は、確実に低下するのです。

しかも、これに反比例する形で、上昇しているデータがあります。青少年の人口に占める犯罪発生率です。1999年の段階で、広島県は、全国2にまで、上り詰め、今年2002年には、1位の大阪府に次いで、全国に先駆け、「暴走族取締法案」を県議会で可決するまでになっています。

http://www.chugoku-np.co.jp/Shimbun/99/SS991015.html



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