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日本文化を見直す     
-Japanese Culture as a Solution-



第1章

東洋と西洋

思考は、しばしば言語に制約されるといいます。
文化が、人間の思考の賜物であるとするならば、
文化もまた、その固有の言語の賜物であるといえます。

第1章では、まず、日本語と英語の根源的な違いから、東洋と西洋の根源的な相違を探っていくことにします。




§2-4 東洋の文化の根源 その2

東洋の思想 「儒教と日本」

東洋的な考え方の根源には、いわば「生命一元の法則」とでもいえる、考え方が存在することを、検討いたしました。

この仏教と神道に共通する考え方は、いって見れば、究極のエコロジーの思想であるともいえないでしょうか?

物皆、すべて心があり、もとは1つの命であったということは、すべては、つながっており、いずれも宇宙を構成するうえでのなくてはならない存在、いわば、役割分担の考え方に基づくといっても過言ではありません。

ですから、人も物も、ましてや、自然とも、共存が当たり前のことであり、経済活動と発展のために、自然を破壊し、征服するという思想とは、対極にある考え方であるといえないでしょうか?

近年、この考え方に関する化学的な論拠も多く出現されています。

例えば、多少、飛躍に聞こえるかもしれませんが、近代物理学においても、最新の量子物理学においては、原子の発見に始まり、現在ではクオークよりさらに小さいスーパークオークの存在が認知されつつあり、もはや、肉眼では確認できない、つまり、物質としては、存在が確認できないレベルでも、現象としては存在するという、いわば、仏教でいうところの「空」の存在が立証されつつあるようにも思えます。

また、宇宙物理学においては、宇宙の始まりについての仮説・ビッグバンなるものが提唱され、これによれば、宇宙は、最初1つの素粒子の固まりであったのが、ビッグバンという大爆発により、現在の宇宙を構成するようになったとするもので、これも考え方によっては、先に示した生命一元の法則ともいえるものに原則的には近い考え方を示しているといえます。

もちろん、これをもって、証明とするわけには参りませんが、
もしかすると、かつての仏陀の教えや、日本古来の宗教文化のなかに、伝えられていたことのなかに、結論としての真実が、包含されていたとしても、不思議はないかもしれません。

なぜなら、仏陀は、「宇宙の法則」を説いていたはずだからです。

いずれにせよ、現在日本には、仏教とそれに相通ずる神道、そして、儒教を含む、いわば、東洋思想の粋とも呼べるものが、今も生活や、ことば、また、何気ない習慣の中に、今だ息づいているのです。それは、その良し悪しは別として、また、仏教徒、神社の氏子であるないに関わらず、謂わば、これぞ、「文化」という形で、日本に保存されているともいえるかもしれません。

さらに、この東洋的なるもの、もしくは、日本的なものの考え方を大きく規定している要素があります。

それは、「漢文」です。

「漢文」すなわち、これも大陸からの輸入品である、中国の思想体系、例えば、孔子の「論語」、孟子、そして、老荘思想も、日本に広く息づいています。この江戸期には、朱子学・陽明学として大成する漢文に基づく、人間教育の伝統も、東洋的な考え方を形作る大きな要素であるといえます。

しかも、日本の場合、この「儒教」なるものを取り入れるにあたり、特異な選択を行っている点が、注目に値するといえます。

中国で生まれたこの孔子に始まる思想・所謂「儒教」には、大きく3つの流れがあると言われています。

それは、儒家と法家と墨家で、法家は、文字通り「法」を中心とする考え方で、どちらかといえば、性悪説に基づく考え方で、荀子・韓非子等によって、称えられました。それに対し、儒家の思想は、孟子に代表される、性善説に基づくもので、孔子の教えの直系でもあります。これに兼愛説を称える墨子を加えた、大きく3つの支流が流れ出ています。

そして、日本は、儒教を受け入れる際、この性善説を称える、孔子の論語と孟子のみを主に取り入れた点で、儒教を取り入れたといっても極めて特異な受け入れ方をしたといえるのです。

しかも、それが、結果的には幸いし、いわば、儒教の持つ、教条主義的な側面の強い法家の思想を退けることで、日本古来の考え方との窓らかな融合を果たしたともいえます。











この「漢文」に描かれた、いわば、「人の道」とも言える考え方は、日本での木材加工の技術から来る、「極める」という志向と結びついて、日本独自の「道」の思想として発展していきます。いわば、労働をも、精神修養の場としての、「タオ・道」として受容したところに、「人の道」としての孔子の教えが、反映していくことになります。

そして、この何事も、自らを律し、その魂を磨く手段と考える、「〜道・」の思想が確立していくのです。

また、表現の差こそあれ、老荘思想の背景に流れている思想も、自然と同化し、自然と一体化することに立脚していることを考え合わせると、これが、先にのべた、「すべては、もとは1つの命であった」とする神道・仏教の思想となんら、矛盾することなく、受け入れられ、融合されたことに、疑問の余地はないともいえます。

いうなれば、この儒家の思想も、東洋的思想のバックボーンとでも謂えるものであり、日本のそして、東洋の文化を理解する重要なファクターでもあると言える所以です。そして、この儒教的な考え方を受け入れることで、結果、鎌倉時代に確立する武家社会を支えるバックボーンとして、特に、鎌倉期に発達した、禅宗などとも、むすびついて、後には、武家社会の最盛期とも言える江戸期に、日本が世界に誇るべき、精神文化、「武士道」へと発展し、花開いていくのです。

この「論語」「孟子」に代表される東洋独自の思想が、日本にこそ、根を下ろし、息づいているといえます。(勿論、韓国では、法家も含めて取り入れている点で、日本以上に儒教的であるといえます。)

漢字文化についても、同じことが言えます。

これも決して日本が優れているとか、良い悪いの問題ではなく、漢字も仏教と同じく、大陸から輸入したものですが、本家の中国では、毛沢東の文化大革命を経て、近代化の名のもとに、漢字の簡略化がすすみ、現在では、漢字の表音文字化がすすめられ、「簡体字」が採用され、公教育でもこの字しか教えられていません。そのため、現在では、中国の子どもたちは、日本の漢字は読めなくなっています。また、韓国でも漢字の使用を減らす政策がとられ、その結果、世代間の学力差を招き、現在では政策の転換が図られています。

このように、東洋的な考え方を知る上で、その背景に流れている思想は、仏教・神道・儒教を問わず、いずれも、「宇宙の理」ともいうべき、「生命一元の法則」として捉えると、共通項を見出すことが可能になります。

しかも、歴史的に、日本には、その粋が今尚、息づいていると結論付けるのは、決して、国粋的でも、極論でもないと上記内容により、ご理解頂けると幸いに思います。

さて、次回は、さらに、具体的に、これらの考え方が、いかに日本という国の文化に反映しているかを見てみることにしましょう。

また、一面的になることを少しでも避けるために、中国や、韓国の皆様のご意見や、文化への考察も広く募集いたしております。是非、メールにて、ご投稿下さい。


次回は、「パラダイムの転換」です。お楽しみに!

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