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日本文化を見直す     
-Japanese Culture as a Solution-



第1章

東洋と西洋

思考は、しばしば言語に制約されるといいます。
文化が、人間の思考の賜物であるとするならば、
文化もまた、その固有の言語の賜物であるといえます。

第1章では、まず、日本語と英語の根源的な違いから、東洋と西洋の根源的な相違を探っていくことにします。




§2-3 東洋の文化の根源

東洋の宗教

西洋の主要な宗教がキリスト教であったのに対し、東洋、とりわけ、日本での主要な宗教と言えば、仏教・そして神道です。

日本では古来、神道が土着の宗教でしたが、かつて、聖徳太子の時代に、大陸からの新しい思想である、仏教を取り入れるかどうかを迷った際、時の摂政、聖徳太子は、仏教と神道が根本的には同じ考え方に基づいていることを、見抜いたので、導入を決めたといわれています。

仏教も、大きく分けると、小乗仏教と、大乗仏教に分けることができ、日本に大陸を経て伝わったのは、大乗仏教です。この大乗仏教は、中国と朝鮮半島を経て、日本に伝わりましたが、今では、本家本元のインドは、もとより、中国も、共産化することで、ほぼ、消滅し、韓国では、いまだ、儒教がその大勢を占めています。

ですから、現在、東洋思想の根源ともいえる、仏教、それも、東南アジアに伝播した、小乗仏教を除けば、大乗の教えは、日本にこそ、その大勢が、今なお、息づいていると言えます。

さて、この仏教と神道に示されている、根本的な思想とはいったいなんでしょうか?

ちなみに、キリスト教や、ユダヤ教、そして、イスラム教が、一人の神、すなわち、一神教であったのに対し、神道、仏教は、何人神様がいらっしゃるでしょうか?

もちろん、仏教は、本来一神教的素養を有してはいるものの、現在では、神道と同じく、複数の仏が存在します。そして、神道は、言うに及ばず「八百万の神」に象徴されるように、複数、それも数限りない、神様で構成される、多神教です。

かつて、イギリスも、ケルト人達による多神教の文化が存在したと言われていますが、キリスト教の伝播により、そのなごりは、聖人伝説として残るのみです。最近のハリー・ポッターの流行は、其のかつての多神教的文化への郷愁の表れなのかもしれません。

さて、東洋的なものの考え方は、その土地に芽生えた宗教に規定されることが多く、仏教もその例外ではありません。

しかも、神道と、仏教は、その根本において、或る1つの共通する考え方に基づいていると言われています。

それは、「生命一元の法則」とも呼ばれる考え方です。

生命一元とは、聞きなれませんが、一口で言えば、宇宙はもとは1つの命であったという考え方といえます。仏陀が説いたのは、宇宙の法則であったと言われていますが、これを一言で表現すれば、上記の考え方に集約することができます。

仏教も、神道も、実は、この「生命一元の法則」に基づいています。

いわば、西洋のキリスト教的な考え方、「2元対立の思想」と対極をなすものであるとも、言えるかもしれません。

さて、この「宇宙はかつて、1つの命であった」という考え方は、日本を始めとする、東洋的な考え方を説明するうえで、極めて有効であると言えます。

例えば、西洋の言語のひとつである、英語の文章がなぜ、必ず、主語と動詞ではじめなければならないのか?という疑問が、人間と神との関係で説明することができたのと同様に、日本語では、なぜ、主語を省いても会話が成立するのか?という疑問に対しても、ひとつの推論をうることが可能なのです。

この「生命一元の法則」は、ちょうど、最近の宇宙の研究でビッグバンという仮説が説明するように、もとは、1つであったものが、ビッグバンにより、爆発し、拡大するなかで、現在の宇宙ができあがったというのと、同じ考え方に基づいています。これからすると、極端な言い方をすれば、人も物も、もとは、1つであったと言う考え方です。









ですから、私たち日本人は、「すべてのものには、心がある。」などと、或る意味では非科学的とも聞こえることを、日常発しているわけなのです。
ここには、宇宙はもとは1つの命であった、だから、人も物も、もともとは、同じ命だったのだと考え方が其の根底に横たわっています。ここに、仏教、神道に共通する考え方があると言えます。これに基づけば、物は大切に扱わなければならない、其の役目をまっとうさせるー仏教ではこれを、成仏させるといいますが、−この私たちの日常、何気なく使っている表現の本当の意味を理解できるはずなのです。

つまり、日本語で、主語を省略しても、発話できることの意味は、もとは一つの命だったのだから、人も物も区別なく、ましてや、あなたと私も、もとは1つの命であるがゆえに、区別ないという考え方から、言わなくても分かる、いわば、以心伝心という考えを生み出しているのです。

ですから、主語はいわずとも、「察する」ことで、分かるという、或る意味では、あいまいな関係が醸成されてくるとも言えます。

様々な考え方が、、この「生命一元の考え方」により、その多くを説明できるといえます。

次回は、さらに、深くこの考え方をみていくこととしましょう。

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