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日本文化を見直す     
-Japanese Culture as a Solution-



第1章

東洋と西洋

思考は、しばしば言語に制約されるといいます。
文化が、人間の思考の賜物であるとするならば、
文化もまた、その固有の言語の賜物であるといえます。

第1章では、まず、日本語と英語の根源的な違いから、東洋と西洋の根源的な相違を探っていくことにします。




§2-1 主語のなぞ −「宗教」の意味するもの−

英語の代名詞 ” I ” は、文中でも常に大文字で表記されます。
かつて、古英語の頃は、ic と、小文字で表記されていたこともあります。
が、現在では、ほかの代名詞、he she it they we 等は、文頭では、大文字でも、いったん文中に入れば、小文字で表記されます。

なのに、なぜ、「私は」という意味の ” I "のみが、大文字で表記されるのでしょうか?

このなぞを解くには、文化の背景のひとつであり、根幹を成す要素である、「宗教」にその起源を求めなければなりません。

西洋の宗教 --------------------------

西洋での支配的、一般的な宗教といえば、キリスト教です。
もともと、キリスト教は、ユダヤ教から派生した、一宗派にすぎませんでした。それが、イエス・キリストの死後、急速にその勢力を拡大し、現在の形になりました。

さて、このキリスト教は、もともとは、ユダヤ教であったことからも判るように、ユダヤ教同様、神様の数はもともと、「一人」、「一神教」でした。

聖書の中にでてくる神様は、本来一人で、通称「エホバの神」と呼ばれています。(キリスト教では、父と子と聖霊の三つを一つの神とする三位一体説が採られています。)

さて、キリスト教の経典は、The Bookとも呼ばれる、聖書(Holy Bible)です。この聖書には、ご存知のように、2種類あり、ひとつは、旧やく(The Old testment)、もうひとつは、新やく(The New testment)とよばれています。さて、この2冊の聖典ですが、やくの字は、どんな字を充てているか、おわかりになるでしょうか? そうです、「訳」ではなく、「約」です。これは、約束、もしくは、契約の約であり、もともと、2冊の契約書であることを、示しています。

では、誰と誰との契約でしょうか?

この場合、神と人との契約、特に旧約は、「民族」との団体契約です。

旧約聖書の意味

かつて、アブラハムという、エホバの神に忠実な人物がいました。

アブラハムは、いかなるときにも、エホバの神に忠節を示したので、エホバの神は、ある日、「もし、私に、これからも忠実であるなら、お前の子孫を未来永劫、繁栄させてやろう」いいます。これに応じたアブラハムの子孫は、のちに、彼の息子の一人、イサクが、イスラエルと改名し、アブラハムの子孫、すなわち、イスラエル民族を構成していきます。

これが、のちの選民思想をも萌芽させていくことにもなります。

この神とイスラエル民族との契約は、モーセの十戒として、成文化された後、正式な契約書すなわち、旧約聖書として、成立していくこととなります。

つまり、聖書の2部冊は、旧いイスラエルとの契約書と、新しい契約書とで成り立っていることになるのです。

では、新約である、新しい契約とは、誰と誰との契約でしょうか?

新約聖書の意味 ----

イスラエル民族は、せっかく神と契約を結んだにも関わらず、なかなか、その条件を満たしませんでした。たびたび、神から警告を受け、神の言うことに従うよう預言者たちを通じて、伝えられても頑民イスラエルは、改心せず、その度に、エジプトに奴隷の身として囚われたり、バビロンに捕囚の身となりますが、最終的に、神は、一方的に契約の解除を申し渡し、ローマ帝国によって、イスラエル王国は、その神殿とともに、破壊され、その後、流浪の民となってしまいます。

そのことを、伝えたのが、かの有名なメシア、イエス・キリストです。

ユダヤの王として、ベツレヘムで生まれ、ナザレにて、大工ヨセフの子として育ったイエスは、バプテスマのヨハネのもとで、洗礼を受けた際に、自分の天命に気づきます。「新しい神の王国の訪れ」を告げたイエスのもとに多くの人たちが、集まってきます。神の子、新しいユダヤの王、また、メシアを名乗る彼の存在は、旧来の契約書たる、律法を中心とするユダヤ教の司祭たちを震撼また、激怒させます。

なぜなら、彼を認めることは、すなわち、旧い契約の更改、ユダヤ教の否定を意味するものだったからです。そのため、旧体制を守ろうとする、ユダヤ人自らの手によって、イエスは、処刑への道を歩まされることとなるのです。事実、新約聖書によれば、パリサイ人たちによって、捕らえられ、当時のユダヤ州のローマ総督・ポンテオ・ピラトの前に引き出されたイエスは、取調べの後、ピラト自らが、ユダヤ人たちに、「彼には、死に値する、何の咎も認められない」と、無罪であることを、証されるのです。
しかし、それでもなお、イエスの処刑を要求する、ユダヤ人たちは、ピラトが、「それならば、ここにバラバという人殺しの盗賊が、いる。イエスか、バラバのいずれかを釈放するので、どちらを、解放するか、諸君の判断にゆだねよう」といいます。そして、ユダヤ人たちは、躊躇なく、「バラバ」の名を叫ぶのです。

これにより、イエスの死刑が確定し、彼は、磔の刑に処されることになるのです。もちろん、彼の死は、あらかじめ、折込済みであったのですが、これにより、旧い契約は、破棄され、新しい契約、つまり、イエス・キリストを仲介人とする、こんどは、一民族ではなく、全人類との契約の道が、彼の死によって、彼が、人類の罪を贖うことによって、成立することになるのです。

しかし、もし、この新しい契約が、全人類を対象としたものであるとすると、私たちも、生まれながらにして、クリスチャンということになのでしょうか?
もちろん、そうでは、ありません。
このイエスを仲立ちとする契約を結ぶかどうかは、当然のことながら、一人一人の「個人」の判断に任されているのです。

ですから、隣の人がどうであれ、自分が神との契約関係に入りたいと望むならば、洗礼を受けることにより、正式にクリスチャンとなる道が開かれていることになるのです。

ですから、西洋は、所謂「契約社会」なのです。
そもそも、信仰が、「契約」で成り立っているものだからです。

そして、さらにいえば、それゆえ、西洋は、「個人主義」なのです。
キリスト教における、神との契約は、神と一人一人の「個人」との間で、結ばれる、いわば、神と人との「個人」契約だからなのです。

英語の代名詞 ”I”が、常に大文字であるのは、過酷な、流血の歴史と、神と、一個人との契約関係からくる、「自我の確立」と「自立」とを示しているものと考えることができるのです。

そして、ルネサンスを経て、キリスト教の絶対性が、崩壊する中で、中世、スコラ哲学を経て、発達した、近代哲学により、「Cogito ergo sum.(我思う故に我在り。)」と神なき今、個人的自我こそが、唯一最大のよりどころとなっていきます。単に読みやすさだけからではない、I の確立が、読み取れる所以です。

さらに、次回は、西洋文化の真髄へと迫っていきます。   次へ


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